わたしの現実

この1年くらい、ふとした瞬間に、不思議な感覚に陥る。

 

蛇口をひねると水がでる。コンロをひねると火がつく。スイッチを押せば明かりが灯る。

 

スーパーにいけば野菜を買える。誰かが焼いた焼き芋をほおばりながら歩く帰り道

車にガソリンを入れているとき。灯油を買い込んで、ストーブに入れているとき。

 

なぜだか、そのたびに不思議な感覚が押し寄せてくる。

 

 

「これほど便利な暮らしは、それ自体がフィクションなんじゃないか」

 

 

そう思うたび、なぜだか手を合わせてしまう。ありがとう。うちのまな板に、今日も鶏肉がこうして並べられていることに感謝します。飲める水がでることに感謝します。ありがとう。ありがたい。

 

そうだ、本来これは、有り難い、つまり有ることが、難しいことなんだ。これほどの有り難いものごとを、お金ひとつで手に入れられているこの世界は、もうずっとフィクションの世界なんだ。

 

じゃあ現実の世界って、なんなんだろう。

 

同じようなことを、中越地震で被災した夜に考えた。あのころは17歳で、はっきりと言語化できてはいなかったけれど、今と似たようなことを感じていた気がする。

 

3度目の揺れが起きたとき、わたしはすでに駐車場に避難していて、自分の住んでいるアパートが、プリンみたいに揺れているのをみた。コンクリートでしっかりと固められているはずの建物が頼りなく揺れているさまは、やけに奇妙だった。わたしは今まで、こんなに頼りないものに支えられて暮らしてきたんだ、と愕然とした。

 

町中の明かりが消えて、信号機だけが点灯していた。あれだけのことが起きても、雪国の人は騒がない。じっと静かだ。まるで町中が、息をひそめているようにはりつめて、しんとした夜だった。そして、びっくりするくらい月が明るかった。

 

自分はコンクリートの上に住んでいるんじゃなくて、土の上で生きているんだと、からだごと実感した。土の下には、とてつもなく大きな命があることを、思い出した。

 

あの体感が、わたしにとっての現実なんだ、と思う。

 

その感覚は、わたしの血の流れのなかに、伏流水のように溶けて、流れ続けて今日までを生きてきた。18歳で東京に出て、東日本大震災を味わったのは就職して2、3年目のときだった。あのときも、やっぱり同じことを考えていた。

 

大地が揺れる。そこに大きな命を感じる。そのことに生かされている実感が、とてつもなくわいてくる。

 

被災時のほうが、ともすれば現実だと感じる。まるで夢から覚めたように、感覚が冴えていく。コンクリートに固められた生活をしている最中は、すべてがあいまいなフィクションを生きているようで。

 

震災のあと、火がついたように山を登り始めた。地に足をつけたかった。いつも気がつけば、頬が涙でびっしょり濡れていた。自分が何で泣いているのかもわからなかった。山に登るのは、しんどくて、切なくて、気持ちのいいことだった。恋みたいに。

 

31歳で東京を出て、住み心地のいい場所にたどり着いた。やがてコロナがきたとき、いまだから本音を言えば、もう何も驚かなかった。ただただ、「こういう形できたのか」と感じた。それだけだった。

 

それには理由がある。かつて東京オリンピックが決まったとき、わたしはまだ会社員だった。もう終わったはずのフィクションを続けようとする東京が、そのことに一喜一憂している周りの大人たちが、怖かった。おもてなしするだけの力が、もう東京に残ってるわけないと誰もがわかっているはずなのに、からっぽの御輿を担ぎ続けようとする社会が、信じられなかった。

 

現実から目を背け続ける、まるで集団催眠みたいな景色が、怖くて、その日からわけもなくいやな予感が始まった。

 

オリンピックは開催されない。そして、開催されないだけの何かが、きっと起きる。そんな予感が日に日に膨らんで、強烈な焦燥感に変わった。東京を出る時が来たんだと思った。

 

休日や仕事を利用して、都内を出ては、旅をしながら、いつも移住先を考え続けた。最初は、当時実家のあった新潟との2拠点を考え、鎌倉や葉山の不動産もみた。登山が好きだったから、定番の山梨も長野も検討した。

 

でも結局、自分が離れたいのは東京が象徴するフィクションなんだと気づいた。東京が嫌いなわけでも、にくいわけでもない。今でも大好きな人たちがいる、大好きな街だ。でも、フィクションを中心にしてこれからの暮らしを考えることは、もはや自分には合わないとわかり切っていた。

 

あれから5年以上が経った。移住して、本当によかった。別に山奥で自給自足しているわけじゃないし、いまでも都市型の生活をしている。でも、ここは自然が多い。何より、ご縁がある。少しずつ、自分に合った形で、わたしたちらしい生き方ができてると実感する。

 

何より、なにもかもがありがたいのだ。蛇口をひねったら水がでてくるだけで、本当に感謝がわいてくる。心の内側から、自分にとってもっとも自然な暮らしへと、日々の選択から思考回路まで、ゆっくりと変化していっているのがわかる。もちろん気は抜けない。形にしていくことは、いつだって相応のエネルギーがいる。

 

 

わたしのなかで、蛇口をひねったら水が出てくる現象を、「フィクション」だと身体がとらえていることを、どうとらえたらいいのだろうと疑問に感じて、整理してみたくなり、ふとこの文章をかきはじめた。

 

いまひとつだけわかったことがある。

 

コンクリートの下、土の奥深くにあるあの「大きな命」とは、

紛れもなく、

わたし自身なのだ。

 

 

そしてそれは、あなた自身でもある。